1.岡道孝コレクション(岡コレクション)

●概要
  8世道孝は、明治後期~昭和40年代初頭までに 土器等の古代出土品、陶芸や民具・農具等、明治・大正の浮世絵、ランプ、等々 諸先輩.様々な芸術家,知識人との交流から独自の価値観を磨き、多くコレクションを残しました。


  1968年(昭和43年)より道孝は川崎市に版画などのコレクションの一部を継続的に 寄贈しておりましたが、没後、1984(昭和59)年に妻・千草が石版画242点、錦絵267点、 新聞など資料270点、木版、ガラス絵、民具など、計1645点の『岡道孝コレクション』を 川崎市(川崎市市民ミュージアム等)に寄贈 (3) して、中曽根総理大臣より褒章を授かりました。その後も道孝の子供達により『岡コレクション』として横浜開港資料館、 同名にて博物館明治村(愛知)、その他も逐次、関係深いと思われる川崎市市民ミュージアム、 川崎市立日本民家園、横浜歴史博物館、その他多くの美術館・博物館に寄贈し、 専門家の資料として研究され、また公共の文化財として親しまれています。

   横浜歴史博物館に寄贈された金屏風
   1995年11月横浜開港資料館にて「蘇る明治大正の記憶 -横浜開港資料館収蔵 岡コレクション展」、 1999年4月川崎市市民ミュージアムにて「ミュージアムコレクション展Ⅲ -芸術都市へ・かわさき-」、 2002年2月同ミュージアムにて「明治の版画 -岡コレクションを忠心に-」が開催され、多くの寄贈品が展示されました。
  その後は展示会の内容に合わせて個々の品が出展されていますが、 平成25年時点、膨大なコレクションや資料が複数の施設に寄贈した結果、 年月を経るごとに何がどこに収蔵されたのか家族ですら曖昧になっていく現状にあります。
  ここでは久本の地にあったどのようなコレクションが現在どこにあるか、 小生のわかる範囲で写真に残るコレクションの一部や逸話など 記録したいと思います。美術館、博物館では時期により展示内容が異なる為に展示の有無はありますが、 もし興味を抱いて頂けたら、各美術館、博物館へ足をお運び頂き実物を見て頂ければ幸いと思います。

●コレクションのきっかけ
  8世道孝は医師として活躍した一方で、趣味人としても生きた人でもありました。 そのきっかけは好奇心旺盛な少年期から始まるようです。
  旧制中学四年生の大正5年(1916年)、ドイツ語の権田先生が考古学について講話があり、 生徒の中で貝塚を知っている人はいるか問われて、自宅のある多摩丘陵には貝塚が点在していることを伝えた。 そこで発掘することとなり、弟の栄一(医師、橘樹考古学会主宰)ら希望者15名余と共に貝塚 (他文献から横浜市の高田貝塚と思われる)にて多数の土器片、石器、獣骨などを発掘し、 権田先生により学内で発表された。 この発掘がきっかけで、土器の紋様の美しさや石器に魅了され収集を行うようになったという (4)。 放課後には上野の博物館の考古学室に足を運び、 日比谷図書館で考古学や伯父が盆栽好きだった影響で造園の本を読みあさったという。
  また同時期に書店で広重の東海道五十三次を見つけ、父・信一の許しを得て 購入したのが版画のコレクションのきっかけとなり、版画にも興味を持ったという。

●本格的なコレクション収集へ
  医師として独立すると京都の庭を巡り自宅に理想とする庭造りをするようになった。 往診の祭には時折、遺物包合層を発見しては運転手に協力して道草を食ったという。 勿論急を要する際には医師の職責に忠心するのだが、 少しの暇があれば全くもって名医も名が泣く逸話も出て来るのだが、 これも仕事も趣味も自然と共にある道孝の彼らしさでもある。
  先輩医から蕎麦猪口の教えを受け、義父・川端龍子や義伯父・川端茅舎に影響を受けて 美術や俳句に触れ、溝の口生まれの濱田庄司(9世の義父)らの民藝運動への影響を受けて、 独自の審美眼や価値観を養い、多くのコレクションを収集した。奥座敷や診療所を閉めた後は旧診察待合室にはお気に入りコレクションが飾られて、 客人に披露して楽しんでいました。
  このように造園で自然と体面し、土器や民藝の素朴で温もりのある焼き物に触れ、 様々なコレクションを増やしてゆくこととなりました。 このことは医師・道孝にとって、人間も自然の一部であるという考えの支えとなり、 過度に投薬や注射に頼らない温もりのある診療スタイルへと活かされることとなりました。

(左)川端茅舎と(右)道孝

●土器等の古代出土品
  古代、多摩丘陵には集落や古墳群があった。戦前から戦後の頃には多摩丘陵から多くの土器・埴輪、矢じり、石斧、曲玉(まがたま)など 多くの出土品からこれらがある事はわかっていたが、現在のようなしっかりとした調査など行われる時代ではなく、 一般には土器や古墳など知識が乏しい時代で多摩丘陵の農地を耕す際に出土した土器片や石器、矢じりなどは石ころと同様に異物として そのまま放置されたり破棄される事もありました。 道孝は往診の際に農家へ行くと何か変わったものが出たら捨てずに取っておいてくれるように頼み、 時には畑から取り除かれた多くの石の中から土器片などを見つけては貰ったり、診療代の代わりとしたり、 貴重なものならお礼をしたりして収集した。

  このようにして集めた出土品のほとんどは数センチ大の土器片でしたが、主に縄文時代から古墳時代の希少性の高いと認められた土器片や 矢じり、曲玉、金属製品、石器などの出土品501点が『岡道孝コレクション』の一部として川崎市市民ミュージアムに収められております (1)。 その中で筒状の一片がまるでジグソーパズルのように他の方から寄付された土偶の一部と繋がるという奇跡もありました。 現在でも寄付された品々は研究者の下で復元や歴史資料として管理されております。
(土偶結合写真)


●剣の出土《小生の小学校自由研究(昭和59年)、8世の次男の談より編集》
  昭和32年頃の夏のある日、8世の次男は薬医門よりやや南西の斜面下を歩いていました。 斜面には数日前の大雨の為に小さながけ崩れの起きていて、赤ん坊の頭程の石が露出しているのに気が付いた。 それを見た父は周囲の赤土の中で異質な石に違和感を覚え、そこから7メートルほど離れた所に横穴式古墳があることを思い出し、 古墳かもしれないと思いました。斜面をよじ登り、試しにその石を取り除いてみると 土の合間に複数の石が確認したが古墳という確信が持てなかった。 更に石と土を取り除くと人為的に掘った跡が分かり、その事を道孝に報告すると発掘するように言われた。 1時間ほど掘り続けると眼前に小さな穴が開き、奥に広い空間がある事がわかった。 羨道(せんどう、えんどう)の石を掻き出して空間に入れるようにすると半球状の玄室が現われたが、棺はなく、 底には10cm程の深さの水が溜まっていて何もないように見えた。 しかし水で覆われた底には数センチ高くなっている場所があり、そこには錆びて壊れそうな刀が2振あった。 それから地面の柔らかい部分の掘り洗い流すと緑色の管玉3個、ガラス小玉10個、水晶の玉3個が出土したとの記録がある。 これらは川崎市市民ミュージアムへと寄贈されています。


  現在、久本神社そばのこの古墳は残念ながらがけ崩れ防止の為、コンクリート塀で覆われていて 久本横穴墓群のレリーフが壁に残るだけとなっています。

  また、以下の写真は同地区の他の古墳からの出土と思われる品で、これらも川崎市市民ミュージアムへ寄贈され研究されています。


●焼き物
  前述のとおり、土器の魅了された道孝ですが、 『芸術新潮・1968年4月号』に道孝自身が「医師失格のコレクション」 (4) という自虐的な題で、骨董のコレクションのきっかけも寄稿している。 ある時、町の先輩医師から蕎麦猪口のおもしろさを教えてもらった。 民藝磁器の優品である蕎麦猪口も往診の際に旧家に訪ねると集める度に数を増やした。 道孝はこの道の先輩に、陶器の勉強をするには二つの方法があると聞いた。 一つには土器からの入門で、もう一つが民藝からの入門であるそうだが、幸か不幸かどちらも触れることが出来た。 その後、古瀬戸に詳しい方に巡り会い、さらに朝鮮磁器の素晴らしさを教えてもらった。 美術品収集を始めて三十年が過ぎても「土器を愛し、ソバ猪口を集めて、なおかつ興味がいく消えるかを知らない」 (4) と記している。


  自然の免疫力に注視し医師として投薬や注射に過度に依存しない治療を目指していた道孝にとって、 溝の口生まれの陶芸家・濱田庄司やバーナード・リーチ達が追及する民藝運動の美意識や価値観に心惹かれたのは 必然であったのかもしれません。(その後、濱田庄司は8世の長男・信孝(日本画家)の義父となり、 三男・佐久良(陶芸家)の師匠となりました。)
  休みとなれば近所の骨董好き仲間、長男・信孝(日本画家)や三男・佐久良(陶芸家)らを連れて川越や益子など骨董を求めながらの 小旅行を楽しんでいたそうです。
川崎市市民ミュージアムに寄贈されてた『岡道孝コレクション』には益子焼を含む95点もの土瓶が含まれています (2)


また大分県日田郡の小鹿田焼(おんたやき)を気に入ったようで、窯元の坂本甚市氏や坂本忠蔵氏に 手紙にて陶器を注文としていた。 当時の窯元からのカタログのような作品の内容を記載した返信や伝票などが残っている。
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ちなみに小鹿田焼は、大分県日田市の皿山の窯の陶器で、1931年に柳宗悦氏が訪れ 1954年と1964年にはバーナードリーチ氏が陶芸研究のため滞在したりと当時より名高い焼き物の一つでした。 1995年には陶芸技法が国の重要無形文化財に指定されています。

●看板、時計、民具、農具等
  道孝は骨董や版画なのだけでなく、 看板、時計、御車、学校で使う大きなそろばん、大根おろし、唐箕(とうみ: 脱穀後のわらくずやもみ殻を吹き飛ばす農具)等々、 一風変わったものも含め生活にに関わるちょっとレトロな物も収集していました。 当時はこのようなモノがあふれていた時代、道孝の審美眼と言うべきか単なる収集癖と言うべきか 家族にはわかりませんが、現代の視点からするとなんとなく懐かしさを覚える興味深いものが多くあります。





●石版画、錦絵等の版画
  道孝のコレクションのうち特徴的なものの一つが明治~大正の浮世絵です。 現在でも日本の版画の傑作と言えば北斎、広重、歌麿などの江戸の浮世絵の印象あるように 当時でも評価の高い高価な品々でした。 しかし、文明開化により新しい印刷技術の伝来して手作業の版画は衰退の一途をたどりました。 その為、当時は美術的評価が定まらない為に明治・大正の石版画や錦絵は江戸の浮世絵に比べかなり手頃な価格でしたが、 コレクションする人もあまり多くいませんでした。
  道孝は中学時代に書店で見つけた広重の東海道五十三次を、父・信一の許しを得て 購入したのが版画のコレクションのきっかけとなり、その後広重や北斎など浮世絵を収集したが、 「評価の決まっているので、もういい」と感じた一方で、 明治~大正の版画は独特の美しさや文明開化の時代性を感じさせる画の面白さに魅かれて、 明治・大正の石版画・錦絵などを好んで収集しました。 丹波コレクションの丹波恒夫氏とも交流があり、彼の収集品と被らないように横浜錦絵以外の錦絵、 三代・広重、小林清親など明治の版画に注目してコレクションしました。 1967年(昭和42年)には明治100年を記念した日本経済新聞社主催「錦絵、石版画、ガラス絵にみる 明治文化展」 にて吉田小五郎氏、内田六郎氏と共に道孝のコレクションが公開されました。 (5)
これらの版画の多くは「岡道孝コレクション」の中核のなるものとして、その大部分が川崎市市民ミュージアムに寄贈され、 特徴的な一部の版画は資料的に関係性から横浜開港資料館、博物館明治村などに寄贈されています。



●ランプ等
  道孝のコレクションでランプは華と呼べるものでしょう。元々 文明開化の香りがする錦絵を集めていた道孝は 錦絵の中に描かれるランプにも興味を覚え収集しました。 特に置き型の色ガラスを使ったランプは奥座敷の静かなたたずまいの中では、 まるで西洋の花が咲いたかのように目を奪われました。 また渡り廊下には無数のつりさげ式のランプが飾られて独特の雰囲気が漂っていました。 道孝がつりつりさげ式ランプを買うのは必ずしも完品ではなく、一部が割れてしまったものや、骨組みだけになったものを 買い集めて揃えていました。置き型のランプは博物館・明治村に寄贈されています。



  2.アマチュア写真家・岡道孝(編集中)
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寄贈目録掲載文献
(1).川崎市市民ミュージアム(1995)『川崎市市民ミュージアム 収蔵品目録 -考古資料- 第1集 岡道孝コレクション』
(5).川崎市市民ミュージアム(2002)『明治の版画 -岡コレクションを中心に-』
横浜開港資料館(1995)『横浜開港資料館所蔵 岡コレクション 図録 -蘇る明治大正の記憶』
川崎市市民ミュージアム(1999年)『ミュージアムコレクション展Ⅲ -芸術都市へ・かわさき-』

文献の一部に寄贈目録掲載
(2).川崎市市民ミュージアム(1995)『川崎市市民ミュージアム 収蔵品目録 -民俗資料- 第1集 〈衣食住〉』,pp.31-34
川崎市市民ミュージアム(2000)『川崎市市民ミュージアム 紀要 第13集』,pp.44-53「アマチュア写真家としての岡道孝 -寄贈資料を中心に- 林 華子」

新聞掲載
(3).不明「1600点余 市に寄贈 -1億円の秘蔵コレクション- 明治の香伝える石板や錦絵 高津区の岡さん」1984年10月17日付朝刊
東京新聞(川崎版)「明治・大正ロマン展 -あす開催 文明開化しのべます-」1993年12月19日付朝刊

参考雑誌記事
「特集・都市と人間(川崎市市民ミュージアム10周年記念 -市民のコレクションとミュージアムの文化-」,『クオータリーかわさき』,NO.55(通算55号,pp.65-71,川崎市市民ミュージアム.
(4).岡道孝,「医師失格のコレクション」『芸術新潮』1968年4月号 (通巻220号),p.113, 新潮社

冊子・配布物

その他関係資料
岡道孝、宮田重雄、椿八郎,「座談会 コレクションと医者」,『医家芸術』,昭和42年6月1日
料治熊太 『明治ものの 集』,徳間書店、1963年




  

(編集2015年4月)
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