俳誌『多摩』

1.  八世・道孝と大橋杣男が創った俳誌『多摩』
  八世・道孝の義父・川端龍子《日本画家》は雑誌『ホトトギス』の表紙を毎号担当するだけでなく、 龍子自身も『ホトトギス』同人として俳句をひねり、時には自身の俳句と絵を併せて作品にするなど、俳句を好みました。 また、龍子の弟・川端茅舎(ぼうしゃ)も画家であり俳人でした。茅舎は高濱虚子先生に「花鳥諷詠真骨頂漢」との評価を頂く 『ホトトギス』の同人であり、道孝は龍子や茅舎達と共に修善寺を訪れるなどの経験から 大きな影響を受けました。そして道孝は義父・川端龍子の薦めもあり俳句をひねるようになりました。
  一方、元衆議院議員で北品川で材木店を営む大橋清太郎《俳号:杣男(そまお)》も 『ホトトギス』の同人でした。太平洋戦争の頃には虚子先生が上野毛の大橋杣男の自宅を 杣男山荘と呼ぶなど気に入って頂き長く滞在して下さることもありました。
  このような『ホトトギス』のつながりから、 戦後に八世・道孝が近所の仲間達と俳句会をする際には杣男と奥村霞人さんが師となり 写生会を開いたり、杣男や霞人さんが選句をしたりと交友を深めました。 その結果、俳誌『多摩』(主監・大橋杣男、発行者、岡道孝)が発刊されました。

(俳誌『多摩』の表紙、表紙絵は川端龍子)

  俳誌『多摩』創刊の際、杣男の願いに応えて頂き虚子先生に句を上げて頂くこととなりました。 道孝は喜び勇んで杣男に連れられて虚子先生の鎌倉にあるご自宅を訪問させていただく様子を 『虚子先生訪問記(素描)』として書き残しています。 ちなみに、素描となっているのは、俳誌『多摩』の編集後記の原案とする為に 書かれた文章ではないかと想像しています。
  尚、富岡八幡宮(深川)にある大橋杣男の句碑の除幕をした杣男の孫娘が、 道孝の次男と後に結婚する為に親戚となるのですが、この当時はその孫娘が6歳、 道孝も杣男もそのようなことは露知らず、道孝は手記に杣男を杣男先生と書き記しています。

2.  『虚子先生訪問記 素描 』 岡道孝
  (昭和24年)3月3日午前11時半、大橋杣男先生宅を訪ね。 兼ねてから約束の雑誌多摩表紙絵を頂きに龍子宅訪問 杣男先生も同行。 表紙に句・随筆・カットをもらう。1時半龍子宅を出ていよいよ虚子先生宅に向かう。
  朝よりの細雨、まず鎌倉の虚子先生宅に3時頃 着。 裏木戸より杣男先生に導かれて玄関の方に廻ると謡曲が梅の香のなかに聞こえて来る。 これを少々きいていた。電車(江ノ電)が先生の御宅の前というよりむしろ玄関を一台通り過ごしたので吃驚(びっくり)する、 宝生流の虚子先生お得意の一曲終えるまで玄関に上がってお待ちする。 御一人で謡われる先生のお若い声が快く耳に響く。玄関を通る電車が三台通過するの数えた後 謡曲を了えてご壮健な虚子先生のお姿が笑顔を以て迎えて下さる。
  杣男先生の御紹介で訪問の内容を呑み込まれると応接室の方へといわれて自ら先にお歩きになって行かれる 而(しか)して応接室に朝からしつらえれあるらしい炬燵(こたつ)にお入りになって私等二人の為に一寸座布団を直して 座るように薦めて下さる。手間をとらせては私は座布団をいただかすとすると、もう一度杣男先生が私を紹介をして下さる 私は杣男先生の御紹介がおわると、丁寧に宜しくお願い申し上げますと申し上げて 虚子先生には伯父茅舎の納棺の際に一度お目にかかりましたと申し上げると一寸考えて先生は次の様に仰せられる 「そうでしたね あの時は誰か一人傍らにいましたね」と驚くべく明亮な記憶に杣男先生も私もハッとしたのです。 それから杣男先生からおねだりで雑誌には句をあげると言って次の部屋 先生の書斎に 立っていかれるや暫くすると一紙の原稿用紙をもってまた前の炬燵の中に一寸膝を入れて俳誌「多摩」為の句を お示しくださいました。
  私は文字が少し読めないで後に困る様なことがないようにと思い 丁寧にその場でして厚く御礼を申べ名刺入れに大切に入れて了ひました 先程の謡曲を御一緒になされしねたのは来客として(高野)素十先生、内々の御方として 先生の奥様をはじめ御子様方でありました。 立子先生もそのなかにおられました。お別れの言葉を申し上げると龍子君に宜しくといわれる。 玄関前に置かれた水溜りには折から梅の一片二片(いとひら ふたひら)が春雨というにはまだ早い雨にうたれ散り始めていました。 頂戴しました句は見出しに炬燵と題されした三句を頂戴出来ました。



炬燵       高濱虚子
人待つ間 炬燵に當(あた)り 仰むき寝
まだ客に 逢はず炬燵を はれざる
主炬燵 客に不愛想 それもよし

『俳誌・多摩』創刊号に掲載







(編集2014年4月)
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