岡家の歴史
1.  久本の地へたどり着いた一世
一世 岡 東栄 1719(享保4)年~1802(享和2)年 享年84歳
  東栄の出生地は明らかではない。ただ、後の6世・重孝が最初に記録した岡家歴代記によると、 長門国(山口県)の小縣三郎の一族と記載している。しかし、墓標には生国長崎緒方氏」「俗名岡東栄」 との記載があり、戒名は「長門院法眼西誉東慧清蓮居士」である。

  (六世・重孝が記した岡家歴代記)
  このことから西の方から来たことは間違いないようですが、山口か長崎か、どこの生まれかは定かでない。 戒名なので大げさな表現をされているでしょうから本当に「西(国にて)誉(れ)」 なのかは明らかではありませんが、 六世の記録にも「幼年より医術を好み熟達の後諸国漫遊中本姓を名乗るを憚り岡と変称して当地に至る」 となっていることから、西国で医術を習得して久本の地へと移り住んだのは間違いないのでしょう。 「燐家持田作之進 能(よ)く其(その)業に達したるを見認め現住地戌亥(西北)の方に 其家の遺跡ありたるを幸い之れに住まわせ 開業数年を出で近村に其名知られ」たとなっている。 当時の久本は大山街道からは近いものの江戸の賑わいからは比較にならない程の田舎だったでしょう。 その田舎暮らしが気に入ったのか、それとも作之進に頼まれたのか、 そのあたりの経緯はいまや想像するしかありませんが、このようにして 一世・岡東栄は久本の地に医院を開業したそうです。

岡の苗字の由来(仮説)
  六世の記録の「長門国(山口県)の小縣三郎の一族」となっていることが気になりインターネットで調べてみました。 長門国(山口県)の「小縣三郎」さんは見つからなかったのですが、墓石記載の「『緒方』三郎」であるとすると、 平安時代末期、鎌倉時代初期の武将、緒方三郎惟栄(おがたさぶろうこれよし)なる人物がヒットしました。 12世紀末頃に豊後国大野郡緒方荘(現在の大分県豊後大野市緒方地区)を領したそうで、またまた山口とも長崎とも離れてしまいましたが、 緒方三郎惟栄が文治元年(1185年)に源頼朝に追われた源義経を迎えるために築城したと (史実ではないそうですが)言い伝えがある「岡城(おかじょう)」という山城があったそうです。
  あれ?「岡城」??それによく見れば緒方三郎惟栄の「栄」の文字、 偶然かもしれませんが小生には「岡 東栄」の名前につながるように思えてしまいます。 実際に「岡 東栄」が「緒方三郎惟栄」の子孫であったかは分かりませんが、 久本の地に来る前に「漫遊」していた「東栄」なら岡城の事も知っていたり、または岡城《廃城、1871(明治9)年》を 見たりしていたのかもしれません。「緒方三郎惟栄」へのあこがれから 姓を「岡」名を「東栄」と変えたのかもしれないと思いました。
  更に調べを進めてみました。一般に「緒方」「医師」といえば「緒方洪庵」が思い浮かびます。 しかし、洪庵は備中藩士の父・佐伯惟因(緒方瀬左衛門)の三男で1810年に田上せい之助として生まれ、 17歳の時に「緒方洪庵」を名乗るようになったようです。 この為1802年に亡くなった「岡東栄」とは関係はないと言われてきました。 しかし、緒方洪庵について興味深い話が見つかりました。 洪庵の先祖の佐伯家(豊後佐伯氏)は緒方三郎惟栄を祖先とする家系だそうです。
  そこで佐伯家について調べてみました。 佐伯家(豊後佐伯氏)は平氏に仕えた緒方三郎惟栄の子孫とされ鎌倉時代から戦国時代にかけ主に大友氏に仕えた九州の豪族である。 しかし大友宗麟との不和により、12代・惟教(これのり)は弘治2年(1556年)「姓氏対立事件」の際に 豊後国佐伯(大分県佐伯市)から長男・惟真一家らを伴い 伊予宇和郡の領主西園寺氏の白木城(愛媛県野村町)に一時、移りました。 永禄12年(1569年)惟教ら一家は大友氏の和解し豊後に帰参したが、 豊後は西園寺氏らの敵国の為、惟真の長男・惟照は人質として残ることとなりました。 天正6年(1578)耳川の戦いで惟教と子・惟真らが討死した為、 惟真の二男・惟定〈1569(永禄12)~1618(元和4年)年〉が佐伯家当主となった。 惟定は文禄2年(1593年)の大友氏改易により栂牟礼城を失うと豊臣秀保の客将となり、 秀保没後は藤堂高虎に仕えて、文禄4年(1595年)高虎の宇和島入封に従い伊予に移住、 その後、惟定は藤堂家の家臣として津城下に佐伯町を開いて移った。 三男・惟寛は毛利輝元を頼って備中国足守に移り住んだ。惟寛の子孫が緒方洪庵となります。 ここで注目すべきは伊予国に残された惟真の長男・佐伯惟照です。 惟照は伊予野村の白木城代から城主となり緒方氏と称し、西園寺氏の直臣となったそうです。 緒方惟照以後の「緒方」さんは、野村の庄屋を務めたり今も続く酒造所を営んだりと野村の名士です。
  佐伯惟照が緒方となったのが16世紀後半~17世紀前半の出来事、つまり岡東栄が生まれる約100年前の出来事です。 仮に医学に傾倒した惟照の子孫の一人がいたすれば長崎遊学などした可能性は高く、 そこで生まれた子も医学を学び、その後諸国を漫遊して久本にたどり着いて医院を開業したと考えても不自然ではないように 私には思えます。 そして前述のように祖先や故郷への想いから「岡城」を思い出して『緒方』改め『岡』としたのではないか? という仮説に至りました。但し、これは直接的な事実は一切確認されていません。 間接的な証拠を基にして至った私の仮説ですが、何か初代『岡』の望郷の念にふれたような気がしました。 機会があったら、大分県竹田市大字竹田の岡城址や伊予野村へと行ってみたいと思いました。

2.  岡医院初期の時代(二世・三世・四世・五世)
  
                        (岡家 家紋)
二世 岡 道栄(躰現道栄) 1773(安永2)年~1842(天保13)年 享年70歳
  道栄(躰現道栄)は、養父東栄から受け継いだ医術をもって、いよいよ近郷に名を知られるようになった。 性格は誠実で人々の信頼を受けていたとの記録がある、

三世 岡 玄栄 1800(寛永12)年~1835(天保6)年 享年35歳
  玄栄は、若くから岡家で医術を学んだ。二世・躰現道栄の子がまだ若く勉強中だったので、 躰現道栄の養子となった。しかし不幸にも壮年にしてこの世を去った。

四世 岡 道栄(大徳道栄) 1813(文化10)年~1855(安政2)年 享年43歳
  道栄(大徳道栄)は二世の子で、体が大きく二十有余貫あり相撲が得意だったそうです。 産科術に優れ十数里四方に迎えられて久本の道栄として知られるようになったろ記録されています。 往診は駕籠(かご)や馬で出かけ、じっとしている暇のはいほど多忙であったそうですが、 それはせっかちだったという性格が故のことかもしれません。 また、幕府のお許しを得ないまま薬医門を建ててお叱りを受けましたが、門は取り壊さなかったそうです。
  1829(文政12)年に地頭長坂血鑓九郎より名字帯刀を、1837(天保8)年には居屋敷無税永住を許された。

五世 岡 道栄(拯済道栄)1833(天保4)~1870(明治3)年 享年38歳
  道栄(拯済道栄)は三世の子で、幼少より書を好み文学を上田陸舟に学び、医学を 先代に学んだ。活発な性格で貧者を救う意思が強かったとも伝えられています。 先代と同じく名字帯刀を、居屋敷無税永住を許されました。
  明治元年維新の年に近隣の医師45人程を誘って医学学校を設立させようと努めるも 2年後の10月に志半ばでこの世を去りました。

3.  近代の岡医院の時代(六世・七世・八世)
六世 岡 重孝 1847(弘化4)年~1920(大正9)年 享年74歳
  記念碑の六世・重孝は武蔵国西多摩郡上成木町の木崎平七の次男で、 若い頃から相模国愛甲郡の叔父・葛野吉沖に師事して漢方医術や内外科を学んでいた。 明治3年3月に五世の長女と結婚して五世の養子となりました。自宅で医院を開設する一方で、 1920(明治22)年4月20日町村制実施の際に高津村議員となり、同年5月10日に高津村村長に就任して 約7年間その職に就いていた。その後、橘樹群群会議員副議長にも就いた。
  日清日露戦争のの際に地元から出兵する青年があると一生懸命に面倒を見みたり、 村の青年たちに習字・生花・弓術・剣道などを教えるなどしていました。 そのようなことを近隣の方々が記念して現在も薬医門の隣にある碑を建立してくれました。
  
                          (六世・重孝)

  
    (左;七世・信一、右;六世・重孝)                     (六世・重孝のアップ)


                 (左;六世・七世・八世が揃う集合写真)

七世 岡 信一 1876(明治9)年~1935(昭和10)年 享年60歳
  信一は慈恵医学校を卒業後、23歳にて医術開業試験に合格しました。 都内で医師として経験を積んだ後の1909(明治42)年に引退した重孝を継ぎ岡医院で診察を始め、 1913(大正2)年より高津村小学校々医も兼任しました。往診は北は用賀辺り、西は柿生辺り、 東南は矢口の辺りまで行っていました。久本薬医門公園に残る瓦屋根の薬医門に改築ぼ際には、 信一が馬で往診する信一が騎乗したまま出入りできるように薬医門の内寸を高くしたと言い伝えられています。

        (七世・信一)

八世 岡 道孝 1900(明治33)年~1984(昭和59)年 享年84歳
  道孝は七世・信一の長男として生まれました。東京慈恵医科大学を卒業後医師免許を取得、 信一の後を継ぎました。1929(昭和4)年には日本画家川端龍子の長女・千草と結婚して五男四女を儲けました。

        (八世・道孝)
  道孝は人間には自然の回復力があるとの信念で注射や投薬を少なくして体に優しい治療を心がけていました。 太平洋戦争前には医院を岡病院発展させたり玉川週末農園を開園させるものの、太平洋戦争の混乱の時代を経過して、 どちらも手放すこととなりました。しかし自宅母屋に新たな診察室を設けて診察を続けました。 戦後も往診の際には診察代金として大根や人参をもらってきたりすることもあり、今から考えるとのどかな時代の医師でした。 1968(昭和43)年の八世・道孝の医師引退により岡医院としての歴史を終えました。
  道孝は、学生時代より文化芸術への造詣が深く、造園、土器収集、俳句、骨董・ガラス収集、 明治浮世絵や雑貨の収集など、多くの貴重なコレクションを残しました。 1984(昭和59)年に妻・千草により文明開化期の版画1600点余を川崎市(川崎市市民ミュージアム等)に寄贈して中曽根総理大臣(当時)より褒章を授かりました。川崎市市民ミュージアム、横浜開港資料館、川崎市立日本民家園、博物館明治村(愛知)、横浜歴史博物館等多くの 美術館・博物館等に岡コレクション、道孝コレクションとして寄贈しました。
  

    (八世・道孝と妻・千草)                    (八世の妻・千草)


  

(編集2014年4月)
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