太平洋戦争の記憶

1.  戦前の岡病院から太平洋戦争の空爆被害

太平洋戦争前の岡病院の発展と玉川週末農園
  六世までの岡医院は小規模ないわゆる町医者でしたが 七世の頃には規模を拡大し始めて外科・内科などと分けられるようになりました。 八世の時代になると自宅敷地内(現在の薬医門の左側の黒塀の向かい側あたり
から久本神社手前付近)に岡病院を開設し、 入院施設もある近代的な病院形態へと発展させました。

           (岡病院 正面玄関)

                            (1932《昭和7》年の岡病院)
  一方で注射や投薬ばかりに頼る医療を好まなかった道孝は健康増進の一環として1937年 (昭和12年)個人経営としては国内で最初のクライン・ガルテン(都市の住民がレジャーとして農業を 行う貸し農園)の玉川週末農園を開設するなど、 医療と健康という多角的な視点での地域の健康増進を図ろうと尽力しました。
  しかし太平洋戦争の到来とともに道孝の抱いた地域医療の発展は遠のくこととなりました。

日本光学の溝の口進出と岡病院
  1940(昭和15)年、日本軍の光学兵器を開発・製造する日本光学が 現在の洗足学園、税務署、富士通ゼネラルなどの場所にあった田んぼ(岡家のものではありません)を買収し埋め立てて、 軍需工場を建設しました。 1944年(昭和19年)には道孝が地域医療の中核となるように尽力していた岡病院も日本光学に買収され、 日本光学の診療所へ変わりました。その為、道孝は母屋の一角で岡医院として診療せざるを得なくなりました。

久本空爆による母屋と内倉の被害
  翌年4月15日、200機のB29爆撃機が川崎市中心部から南武線沿線の工場等を空爆した川崎大空襲がありました。 現在の国道246梶ヶ谷交差点の付近には当時歩兵第101連隊東部62部隊本部、溝の口には日本工学などの軍需工場があり、 同月22日に久本地区でも空爆を受けました。
  当時生まれていた六人の道孝の子供達のうち、小学校高学年だった次女と次男は 静岡県の修善寺へと疎開していました。中学生だった長女はお腹の大きかった母に代わり 赤ん坊の三女をおんぶをするなどして四名の子供達と母・千草は防空壕へと避難しました。 防空壕に避難した長男は防空壕の真上にも落ちて物凄い大きな音と揺れで恐怖を感じたそうです。 しかし幸いにも防空壕には被害がなく無事でした。一方、防空壕の外では南武線に沿って空爆で多くの建物は爆風で飛ばされたり火災に見舞われたりと 被害が出ていました。 道孝は自治会として南武線線路北側にあった62部隊の寄宿舎の近くを見回り中、 寄宿舎付近に落ちた爆弾で飛んできた破片により足を負傷したものの大事には至らず無事でした。 岡家では二発の爆弾が落ちました。一つは小さめの爆弾であったものの、 外蔵に近くあった小屋が直撃にあい、そこに住んで畑作業を手伝ってくれていた爺やを 残念ながら亡くしました。 また、母屋裏手(井戸から5m程北側付近と思われる)には500キロ爆弾が落ちました。 爆風は下から突き上げるように母屋を包み込んで、内倉の前の三部屋が倒壊し、 内倉の壁一部が崩落して倉の屋根が延焼しました。 また岡家側面にもあった黒塀はその時に側面部を焼失して、現在のように正面部分だけが残りました。 他の部屋でも被害は激しく、部屋の中には襖や障子などが散乱して、 薬医門の方から母屋内部越しに溝の口駅が見えたほど酷い有様だったそうです。
  勿論、空爆は岡家だけでなく近隣一帯にもあり、 家屋の消失やなくなられた方も多数おりました。 軍需工場は多くの被害が出たものの、その後も終戦まで地下工場等を稼働させて生産を続けていたようです。

久本空爆のその後
  戦後、大山街道の「ねもじり坂」を上り切った左側にある地蔵堂の脇には 久本空襲で死亡した人を弔う地蔵が置かれ、現在も祀られています。 日本光学の溝の口工場は閉鎖され、日本光学の診療所も閉鎖になりました。 そして病院建物はGHQの管理の寄宿舎となりました。 爆撃で被害を受けた母屋の大部分は補修されましたが、倒壊した三部屋は再建されずに、 倉の前は日当たりが良いまま子供達の遊び場となっていました。 その後、母屋と内蔵をつなぐ渡り廊下と離を建てましたが、結局母屋取り壊いまで 倉は本格修理することなくトタン板などで補強されたままの状態になってしまいました。

(1994(平成6)年撮影、空襲の後に建てられた渡り廊下とトタンで修理されている二階建ての内倉)
  しかし、江戸時代末期に建てられたこの内倉は公園整備の際に「基礎石・柱・床・壁・建具・梁組(はりぐみ)は 建築当時のものを活かし、屋根、壁等は新しい材料に交換して、本来の漆喰塗り、置屋根構造の土蔵」の元の姿へと蘇りました。 (注「久本薬医門公園 公園解説の経緯と公園施設の開設」より抜粋)


2.  薬医門と太平洋戦争
  1994年撮影の薬医門と現在の薬医門を比べてみて下さい。 門に一つ小さな違いがあることに気が付きましたか?

   (1994年当時の薬医門)                    (現在の薬医門)

  公園開設前の薬医門の修繕の際、薬医門建設当時にはありましたが後に失われて1994年 (平成6年)当時の薬医門にもない『あるもの』を復元して現在は薬医門建設当時の姿に戻りました。
  おわかりになったでしょうか?『あるもの』とは薬医門の扉等についている小さな銅製の飾り です。1994年の写真にはそれがありません。

                     (1994年当時の薬医門)


               (現在の薬医門)

  太平洋戦争当時、お国の為に身の回りの金属など提供する供出運動があり、小さな薬医門 の飾りも貴重な銅として供出されました。小生が幼少の昭和50年代にこの話を聞きましたが、 こんな僅かな量の銅を出して何の助けになったのだろうかと疑問に思い、またこの程度の物資 すら貴重であったのかと驚きました。勿論、戦争当時は日本国中から供出された金属の総量 は大変な量になったのですが、国家のスケールでなく個人のスケールで太平洋戦争当時の 時代背景を感じる逸話として心に刻んでいました。薬医門の一つの歴史としてここに紹介させて いただきました。


  

(編集2014年4月)
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