1.  母屋の歴史
  母屋は1840年前後の三世か四世にあった最初の母屋が焼失したのちに建設されて岡医院 兼住居として使われてきました。 八世・道孝の時代には医師であり町内会長であった為、電話線がつながった際には町で最初に電話が設置され、 近隣の方が使う公衆電話と伝言役としての役割も果たしました。 ちなみに電話番号は郵便局が1番、太田病院の太田さんと岡病院の八世・道孝がじゃんけんをして 勝った太田さんが2番、負けた岡が3番となったそうです。 また、母屋の襖の間仕切りを外すと大広間になり地域の方々の結婚披露宴や 町の集会を開くなど公民館のような役割も担っていました。
  以後、岡医院を兼ねた母屋は1994年に取り壊されるまで約160年間、久本にありました。

(1994年頃撮影)

(1990年撮影)
  母屋建設当初の歴史に関してはあまり詳しい記録が残っていません。 3世・玄栄《1800(寛政12)~1835(天保6)》又は四世・道栄(大徳道栄)《1818(文化9)~1855(安政2)》 の時代に母屋は全焼したと言われています。その為、写真の母屋は1830~40年頃に建設されたと推定されています。 1837(天保8)年には四世・道栄が居屋敷無税永住を認められていますが、これは火災の前後どちらか不明です。


  再建された母屋は建設当時は間口十間奥行四間に庇をめぐらせた藁葺(わらぶき)屋根でした。 七世・信一の時代には薬医門の建て替え後に、母屋の手入れなどが行われた記録が残っています。

(明治40年頃の写真、中央やや左の藁葺屋根が母屋、奥に見える町並みが大山街道沿い)


(前の写真の母屋部分のアップ。)
  門が現在の瓦屋根の薬医門になっていることがわかります。また、久本薬医門公園に残る松らしき木も見られます。 その後、この母屋建物はそのままにして瓦葺屋根に葺き替えれれました。

(1990年頃撮影,右下の白い構造物の左側にあるのが一部完成している現在の幹線道路)


(1994年撮影)
  都市計画道路用地の為に奥の内玄関や台所など母屋の一部取り壊されています。 母屋の右手には道孝の長男宅などもありましたが空き地になっているのが見られます。
  そして約160年(推定)にわたり久本の地で家族を見守り続けた母屋は1994年(平成6年)11月14日に 最後の日を迎えました。

2.  母屋内部と庭の写真と思い出

  こちらでは母屋内部を御紹介いたします。取り壊し直前の1990年頃に作成された図に 戦後の部屋割り等を書き加えました。 1980年代には庭の近くの誰も使わなくなっていた旧内科診察室(子供勉強部屋)を道孝の妻・千草の部屋へと改装したりと 時代によって多少異なりますが、取り壊しまでほぼ変わりはありませんでした。



1.  大玄関
  薬医門の正面にあった大玄関。大玄関の左手前には夜間でもベル押せば患者さんが診察室に出入りできるの岡医院玄関もありました。

            (大玄関)                            (今も残る四角い手水鉢)

2.  診察室
  閉院後の医院診察室は道孝の雑貨コレクションでいっぱいでした。 当時は写真のような時計や眼鏡、蕎麦猪口、薬の看板などだけでなく、例えば板に釘のような物が いくつも付いた大根おろしや大きなそろばん等、子供心にはコレクションと呼べる類のものか理解ができない物も 多々まぎれていました。

    (大玄関を上がり左手の様子、奥が待合室)              (待合室の中の様子)

3.  サンルーム
  サンルームは薬医門から入って右側の庭を望む場所にありました。 7世・信一の時代には外科診察室として使われていた場所で、戦後にサンルームに改修されました、 庭の眺めがよく日当たりの良い土間形式のサンルームは、西側の涼しい応接間の代わりに客間として 頻繁に使われていました。

        (向かって右側がサンルーム)


    (サンルームの中にあった手水鉢(ちょうずばち))       (サンルーム内部と奥が仏間)

4.  庭
  サンルームの前(薬医門から入って右側)の庭は今とは少し趣が異なり、 枯山水風の廻遊式の日本庭園でした。 万葉集の防人の妻の歌「赤駒を 山野(やまぬ)に放(はが)し 捕(と)りかにて 多摩の横山 徒歩(かし)ゆか遣(や)らむ」 の『多摩の横山』をモチーフとしたこの庭は、道孝の自慢の庭でした。 丸刈りで不揃いの大きさのつつじやさつきは大山や多摩丘陵とし、 庭の右奥に台形のような形の大きな石は富士、 奥の縦長の大きな白い石は滝、 低く角刈りのつつじの向こう側の白い玉石は滝からの河の流れ、 手前の青黒い玉石は相模湾を模していました。河には橋が渡されて所々に石灯籠やお地蔵様が置かれ、 、新春は梅の花、春はキバナシロタンポポ(中心に近い花弁が黄色で外側の花弁が白いたんぽぽ)、初夏はつつじ、夏はほおずき、秋はもみじと 季節折々で楽しめるようになっていました。造園は庭師さんが行ったようですが、 手入れは主に道孝の長男が丸刈りの刈込などをして手をかけていました。小生も時々伯父の見まねで手伝うこともありました。


         (仏間からの眺め)

                                (サンルームからの眺め)


                             (奥の滝石から流れる河を模した様子)

5.  表座敷、奥座敷
  薬医門から入って左側の庭を眺めるのが表座敷でした 座敷は道孝以前の時代は応接間として使われていて、明治45年5月2日に奥座敷に床の間を新設したと記録が残っています。 表座敷の前の庭は古くからあった庭で、それを八世・道孝が手直しをして現在に近い姿になったそうです。 戦中戦期は奥座敷を寝室として使用することが多くなりましたが、道孝の骨董やガラスのコレクションなどを 披露したり、俳句の集まりなど大勢で集まる際にはお客様をご案内したり、イベントの時には家族で集まったりすることもありました。 一歳直前の小生が一升餅を担いで歩いたのも母屋奥座敷でした。

       (縁側から表座敷と裏座敷)                      (奥座敷の床の間)


    (奥座敷から表座敷越しの庭の眺め)                  (座敷横の縁側)

                    (昭和49年;一升餠を担がされる小生)


  (松の横の庭門から表座敷へと延びる飛び石)                  (今も残る庭)

6.  内玄関・板の間
  家族が出入りする内玄関は薬医門から入って右手の奥の位置にありました。内玄関を上がると 6畳ほどの板の間の奥には居間、右手には台所がありました。しかしサンルームや台所、縁側など様々なところから出入りすることも多く、 どこから入ったか忘れて靴を捜し歩くことになることもありました。
  毎年元日には居間と内玄関を上がった板の間で家族・親戚一同が集う 大宴会が行われていました。昭和50年代前半の元日の宴会では年長者から居間の上座に座り、 一番幼い小生のすぐ後ろには無数の靴がが並ぶ内玄関ということも ありました。賑やかな宴会は時には夜更けまで続き新年の始まりをお祝いしていました。

  (内玄関の上の板の間、奥が居間)                   (1977(昭和52)年元日の孫達)

7.  居間
  居間の真ん中のテーブルの下は掘り炬燵(こたつ)になっていました。 小生が幼少の昭和50年代には電気式になっていましたが、以前は掘り炬燵の真ん中に炭を焼(く)べて 暖を取るようになっていました。 冬場には寒い母屋で一番あった居心地の良い場所でいた。また夏など炬燵として使わない時期も道孝の妻・千草が書き物や 一人トランプをする足元で、子供たちが掘り炬燵の中にかくれんぼで隠れたりなど、懐かしい思い出のある場所です。

          (居間)

8.  倉
  2階建ての内倉は薬医門公園の一部として現在も保存されています。一階には道孝が集めた ガラス細工、ランプ、焼き物などから兜飾りやこいのぼりなどなど様々なものが納められ、 2階は無数の古文書がありました。医療に関する文献、久本地域や高津に関わる文献、岡家 や岡医院に関する文献など無数の古文書がありました。中には江戸時代から明治の古文書も 多くありましたが、多くの古文書は素人が簡単に読めるものではありません。 寄贈された文献の中には幻となった武相中央鉄道の「武相中央鉄道設立ノ義付上申する」 (横浜開港資料館寄贈)と題した古文書も含まれており興味深い資料もあったように思われます。 ちなみにこの倉にあった工芸品、美術品の内、貴重な品々の多くは主に横浜開港資料館、 博物館明治村、川崎市市民ミュージアムへ、古文書等は川崎市市民ミュージアム、横浜 開港資料館、川崎市立日本民家園などに寄贈されております。

        (倉内部2階の様子)                          (中身の多くは古文書)


  

(編集2014年4月)
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