薬医門と記念碑

1.  薬医門の歴史

  元々、岡医院に門を建てたのは四世・道栄(大徳道栄)《1813(文化10)年~1855(安政2)年》でした。 そのころの門は簡素な木造の薬医門でした。 当時は医者であっても幕府の許しがなければ勝手に門を建てることは許されていませんでしたが、 道栄は門を建ててしまい、お詫びの旨と御許しが頂けるようにと書簡を出して、 なんとか取り壊しは免れたそうです。
  その後、七世・信一の時代に久本薬医門公園に保存される切妻造(きりづまづくり) 瓦ぶきの薬医門(正門)に建て直されました。

  川崎市立日本民家園に寄贈された表紙に『明治四十二年己酉歳  工事諸控  第十二月起  第七代  岡信一』と題された普請帳がある。 これによると正門(薬医門)は明治42年12月に新築着工して翌6月7日に上棟、7月9日に落成したと記録されています。
  七世の時代の往診は北は用賀辺り、西は柿生辺り、東南は矢口の辺りまで行っていたそうで、馬で往診する 信一が騎乗したまま出入りできるように薬医門の内寸を高くしたと言い伝えられています。
  
       (馬上の七世・信一)                     (七世・信一の姿)
  また、患者さんが夜間も出入りできるように正面扉の横にくぐり戸がつけられています。 以来、岡医院を象徴する存在となりました。お盆には薬医門の前でお迎え火を焚いて御先祖様をお迎えしたりしました。
 
(昭和53年頃;お盆に集まった八世の孫達)           (1991(平成3)年の迎え火)
          
(昭和50年頃;薬医門正面から西側と八世の孫)        (1994(平成6)年薬医門手前から西側の景色)
  薬医門には最後の医師八世・道孝が引退後も母屋取り壊しの1994年(平成6年)まで岡医院の門札がかけられていました。


2.  記念碑
  1921(大正10)年10月31日に除幕された久本薬医門公園に残る石碑は、 初代高津村々長を務めて前年に他界した六世・重孝を記念したものです。


  

  この記念碑が建てられた当初は現在の向かい側やや東寄りに建てられました。 そして約45年前に現在の薬医門の隣の場所に移設されました。 映画『喜劇 駅前団地』(1961:監督・久松静児)では 『暁天堂戸倉醫院(ぎょうてんどうとくらいいん)』の設定で記念碑が移設前の薬医門が出てきます。




(編集2014年4月)
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